夜明けの光が、少しずつ滲み込んできている。
屋根の裂け目から、漆黒がゆっくりと灰色に、灰色が淡い白へと、静かに変わってゆく。
水のように、床に滲み広がっていく。
ネロは目が覚める。
彼女は動かず、ただ裂け目の向こうで、次第に明るくなっていく空を見つめているだけ。
外では、いつしか虫のさざめきが、遠くから聞こえてくる澄んだ鳥の囀(さえず)りに溶けていく。
静かだなぁ……
ネロは顔を横に向ける。
ロッリーアの寝顔が目に入った。
寝息は軽く、穏やかに。
ネロの視線はロッリーアの横顔にしばらく留まる。
月明かりの下で見せた、あの顔。
そして、あの声。
ネロの指先が、わずかに動いた。
しかし、それもほんの一瞬。
しばしの静けさの後、ネロは目を逸らす。
ネロは身を起こす。
屋外、木々の間には、ほのかな冷気が漂っている。
主人の姿を認めると、ペーガソスが頭を振る。鼻息が朝の冷気の中で、白い吐息となった。
ネロは手を伸ばし、馬のたてがみを撫でる。
ペーガソスは鼻先を彼女の手のひらに、そっと擦り付ける。
「昨夜(ゆうべ)、よく眠れたか」
ネロはペーガソスの首すじをそっと撫でる。
ペーガソスはブルルと鼻を鳴らす。
「余も同じだ」
柔らかな朝風が、草木の香りを乗せてくる。寝起きの靄(もや)が残るネロの意識を、わずかに晴らしてゆく。
今日も晴れになりそうだ。
ネロはふっと息を吐く。それから、ひとつあくびをする。
「ん……ぅ……」
ロッリーアは、わずかに眉をひそめる。
それから、身を捩り、ゆっくりと目を開ける。
だが、瞳孔がピントを合わせても、視界には何もない。
「……ん?」
ロッリーアは、寝ぼけたように何度か目をしばたたかせる。
ネロがいない。
しかし外から、ネロとペガソスの声が聞こえてくる。
……この子、馬と話しとるん?
ロッリーアは軽く頭を下げる。
昨日の出来事がふたたび、鮮やかに目の前に蘇る。
……信じられへん。
夢のはずやのに、ちゃう。
ロッリーアはふっと息を漏らす。
……よし。
毛虫、おらん。
ロッリーアは、ほっと息をつく。
そして、廃屋の外へと出る。
ネロは火打石を打っている。
背後の物音に気づいたのか、ネロは振り向く。「……起きたのか?」
「……うん」
ロッリーアは昨夜の残り物に目をやり、銀の器を手に取ると、そのまま林の奥へと歩いて行く。
ネロは彼女の後ろ姿をちらりと見やり、また自分の作業に戻った。
だが、ネロが自分の分の肉を食べ終わる頃、ロッリーアは、うろうろした様子で戻ってくる。
「……時間、ずいぶん掛かったね」
ネロはわずかに片眉をひそめる。
「……水、見つからんかった」ロッリーアは器を地面に置きながら、不機嫌そうに言う。「こんな所、溝ひとつもない」
ネロの視線がロッリーアの少し乱れた髪に一瞬だけ留まる。「……ふむ。どうする?」
「別に。どうしようもない」そう言って、ロッリーアはネロの隣に腰を下ろす。「この辺、水どこにある?」
「……余もよく知らぬ」ネロは肉の串を一本差し出す。「ラティウムにはテベレ川以外、あまり大きな川はない」
ロッリーアは受け取るが、すぐには口にしない。代わりに、ネロをちらりと見る。「……地元じゃないの?」
「たとえ余が皇帝(第一市民)であろうとも、ローマの隅々まで知るわけではない」
ロッリーアは、ふっと息を吐く。「……そうか。なら、あとは運に任せるしかね」
沈黙。
「……リタがいれば、良かったのに」ネロはわずかに首を下げる。「彼女なら、きっと水のある場所を知っておったはずじゃ」
ロッリーアは何も言わない。
肉を一口噛むと、思わず眉をひそめる。
昨日の残り物だから、もう一度焼き返したけど、干からびて固くなってた。
二口目を運ぶ。
……食えるけど。
木を噛んでるみたいや。
うち、いつから啄木鳥(キツツキ)になったんやろ?
「……彼女は今、どこにいるのだろう。無事なのか」
ネロは、来た道の方へ目を向ける。
「……しぶとい人はずでしょ」ロッリーアは肉を呑み込む。「あんな人は一般人より、生き残るのが上手いんでしょうね」
「うん……」
ネロが顔を伏せると、耳飾りがわずかに揺れる。
「いいから、人のことばかり心配するな」ロッリーアは手を伸ばし、野イチゴを数粒口に運ぶ。「まだ安全じゃないよ、わたしたち」
ロッリーアは一瞬だけ言葉を切った。
「とりあえず、自分が生き残ることを」
ネロは何も言わない。
最後の肉の串を食べ終え、彼女は立ち上がり、ペーガソスのそばへ歩み寄る。
そして、馬の片足を持ち上げる。
ロッリーアは食べながら、ネロの手元をじっと見つめる。
馬の蹄の上には、銀色の光がわずかに……
あれは……
蹄鉄?
ネロはその足を下ろし、別の足を持ち上げる。
繰り返されるその動作は、何か大切なものを探しているかのように見えた。
「……何をしてるの?」
「蹄を確かめる」
ネロは顔を上げない。
「……要るの?」
ロッリーアは一瞬、間を置く。
「もちろん。人とて遠出する前には、自分の状態を確かめるであろう」ネロはもう一本の足を持ち上げる。「先に確かめておかねば、何かあった時、間に合わぬからな」
「……そう」
ネロを見つめてから、ロッリーアは手を伸ばし、もう一本の肉の串を取る。
……タイヤでも点検しとるみたいやな。
「結構しっかりしてんねやな」
「この子、もう何年も共にしている。幼い馬から」
ネロの声には、抑揚がない。
「……ふーん、そう」
馬を飼ったことあらへん。
ほとんど見てへん。
それやけど。
ロッリーアは、最後の一本を手に取る。
「初めて会った頃、この子は余に噛みついた」
「……馬って、噛むん?」
ロッリーアは思わず吹き出してしまった――
あれを想像するだけで……
「そうよ」ネロは首を振る。「もし余が止めなんだら、リタはあの時、きっとこの子を打ち殺していたんだ」
ロッリーアの目線が、空へ向く。
リタやったら……
確かに『あんなこと』をやってのける人らしいね。
いつもポーカーフェイスなリタも、あの時はきっと、表情が崩れとったやろなぁ。
ネロはきっと、必死にリタを引き止めて、『子馬相手にムキになるな』と言うたんやとか……
「よし、傷口はない」ネロは最後の片足を下ろす。「そろそろ行く?」
「うん」と、ロッリーアは頷く。「……そう言えば、今までどれくらい?」
「う……」ネロの視線はまだ、来た道の方を向ける。「多分、25哩(ミリヤ)かなぁ」
「……25ミリヤだけぇ?」
ロッリーアは頭の中で『1300』と『25』を比べる。
『進捗がある』というよりは、『ほとんどあらへん』っていうた方がええわ……
……1300/25=52
とは言え、これって理論的な結果。
実際には、恐らく二ヶ月以上はかかるやろうな。
何事もなく、たどり着ければええんやけど……
ネロが先に馬に飛び乗り、手を差し伸べてロッリーアをぐいと引き上げる。
周囲の森林は次第にまばらになり、代わって広い農地や果樹園が目立つようになっていく。
地形も少しずつ、開け始めていた。
時折、畑で働く奴隷の姿や、干し草を積んだ荷車が目を映す。
ペーガソスは農道と林の際を縫うように駆けていく。
灰色の影がぼんやりと浮かんでいる。
ネロの視線が、そちらへ向いた。
「……どうしたの?」
ロッリーアは口を開ける。
「ふむ……」
「……あっちはどこ?」
ロッリーアはネロの視線を追い、その先をじっと見つめる。
「おそらく……ストリウム(Sutrium)だね」
ネロは視線を戻す。
「……ストリウム?」
「ああ」ネロは頷き、声を低める。「まだ、ここなんだなって……」
「……ん?」
ロッリーアはわずかに首をかしげる。
「……なんでもない」ネロは一瞥をくれる。「さて、どうする? 迂回するか?」
「……ここに、軍隊はいるの?」
ロッリーアは左手の甲で右肘を支え、右手の人差し指を顎に当てる。
「ここは辺境じゃなくて、イタリアだよ……軍団が駐屯していることはないだろう」ネロは首を振った。「だが、確かならば……ここの市政官は恐らく、余の顔を覚えているはずだ」
「……あ?」
「うーん……確か、名前はアウルス(Aulus)・カニニウス(Caninius)だったかな」ネロはそのまま独り言のように続ける。「近いからな。イタリアの地方官や公務員たちは、よく都(Urbs)に来る」
ロッリーアの手が、顎から額へと移った。
蹄鉄の音が戦太鼓のように響く。
一秒。
また一秒。
「食べ物もあまり残っていないし、入らないといけないと思う」
ロッリーアはようやく口を開く。
「それなら……」
「……いや」ネロの言葉を遮った。「ペーガソスと街の外で待ってて、買い終わったら合流しよう」
「……分かった」
ネロの声がわずかに低くなる。
ペーガソスは林の縁を歩いている。
数百メートルほど先、街道が脇を走っている。
黒灰色の小さな影が、その上をゆっくりと動いていた。
この距離やったら……
誰かに気付かれる心配はないやろ。
ロッリーアはあたりを見回す。だが、怪しいものは見当たらない。
「……ここまででいいよ。それ以上は。」彼女は視線を巡らせながら、距離を見積もった。
「……良いの?」ネロはペーガソスを止め、ロッリーアへ視線を向ける。「まだ半哩ほどあるけど、大丈夫?」
「半哩くらいなら、鍛練と思えばいいよ」ロッリーアはゆっくりと馬を降りる。「もし首と体が別れてしまったら、何哩を歩くのかなんて悩み、それこそ消えてなくなっちゃうんやろう」
「……」
ロッリーアの顔を見る。
「……」
二人はそのまま見詰め合っていた。
「……何か、忘れていないの?」
「あっ?」
ロッリーアは息を吐く。「……お金は?」
「……あぁ」
ネロはハッと我に返った。鞍袋から革袋(marsupium)を取り出した。
「……これだけ?」
ロッリーアは革袋を開けて、銀貨七枚と銅貨十四枚を数える。
「……残されたのは、今やそれだけ」
「……ごめん」
ロッリーアは黙って袋の口をきつく縛る。
ネロは首を横に振りながら、もう一つの大きな革袋を差し出す。
ロッリーアは、首をう俯く。
だが、すぐに顔を上げる。
「……とりあえず、どこにも行かないで、ここで待っててね。四十五分……ちゃう、一時間半ぐらいで戻ってくるから」
「……『四十五分』?」
ネロの視線が向けられた。
「……うん」
「時間を数える単位?」
「うん」
「……では、一分とはどのくらい?」
「一分は……六十秒になるんだ」
「……」
ネロは何も言わないまま、じーっとロッリーアを見ている。
「……一秒は、こんな風に数えます。長くもなく、短くもないように。」ロッリーアの眉が少しずつ和らいた。「一、二、三……そのまま六十まで数えたら、一分になります。」
「……」
「……理解できませんか?」
ネロが分かっているのかどうか、ロッリーアにはさっぱり見当がつかない。
「分かるのは分かるけど……」冬の海上に浮かぶ薄霧のように、ネロの灰青色の瞳には、戸惑いというものが映っていた。「これほど細かく刻むことは一体、何の意味がある?」
ロッリーアはきょとんとした。
「……時間が以前よりも精確になって、それに、もっと統一された目盛りが必要になったから」
「だから、そこまで精確にしてどうするのだ?意味は分からないよ」
ロッリーアは口を開けた。
何か言おうとしたけれど、結局、何も言えなかった。
そうだ。
時、分、秒……
それらに、一体どんな意味があるというの?
電車の発車時刻表には、一分まで精確にしなければならない――
ローマ(この時代)には、鉄道なんて存在しない。
外科手術では、麻酔時間を精算しないと――
ローマ(この時代)にそんな医学はない。
自分(わたし)が何時何分に、どこへ着くのか分からなければ――
だが、そもそも『それを必要としている』という感覚自体、外の社会が『わたし(自分)』に求めたものではなかったか。
――そう。
より精確な時間には、確かに意味がある。
近代産業の大規模運営、緻密(ちみつ)な役割分担、何百万以上の人々を巻き込んだ同調……現代社会の基本原理は全部、その精確な時間体系の上に築かれている。
だが、ローマ(ここ)は現代社会ではない。
ここには、それが要らない。
ロッリーアの目の焦点が合わなくなる。息も咄嗟に止まってしまった。
何かが、心の中で崩れ落ちていく。
あれはゆっくりと罅割(ひびわ)れていくようなものではない。心の最も深い場所から、支えそのものを引き抜かれたように、一気に雪崩れていくような感覚だった。
そのせいか、目の前にいる『ネロ』という存在さえ、今はひどく遠く、見知らぬもののように感じられる。
――いや。
ネロが変わってしまったわけじゃない。
もしかすると、自分は最初から、この人のことを何ひとつ理解できていなかったのかもしれない。
「……う、ウチ、先に買い物行ってくるわ。話は……あとや、あとでええ……」
そう言い残すと、ロッリーアは逃げるようにその場から足早に立ち去った。
2026.06.13 14:57
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