「……ふっ」
ネロは草むらにしゃがみ込み、ただ野苺を一粒一粒、黙々と口に運んでいる。
不満げなのは明らかだが、ネロは手を止めない。
どんな人間でも、腹ペコや渇きには負けるもんどすな。
皇帝どすえ、同じことどす。
ロッリーアはネロを見つめる。
でも次の瞬間、何が思い出したかのように、持っている器を凝らしている。
その器はかなり重く、銀色に光っている。触ると滑らかで、作りも精巧なのは一目でも分かって、決して普通の家庭で使えるものではない。
こっちゃ……
銀?
ロッリーアは何回も何回も見返しても、断言できない。
まぁぁ……
どうでもええ……
うちと関係あらへんやろう。
ロッリーアは木栓を抜けて、眉をひそめながら水を流れ切る。
けどや……
砂漠におる余純順(よじゅんしゅん)が、うちのやってんことを見たら……
彼はきっと腹立てて、ぎゃあぎゃあ憤りをぶつけるやろなぁ……
ロッリーアは、ふっと笑ってしまった。
アホちゃう?
こんなバカらしいこと。
ここ、砂漠やん。
彼女は首を振る。銀のような器をペーガソスの鞍袋(くらぶくろ)へと押し戻す。そして、そのまま逆側へ歩き出し、野苺を探し始める。
二人はそれぞれ手元のことに忙しく、言葉を交わすこともない。森の中には、蝉の声と鳥のさえずり、そして葉が揺れる音だけが響いている。
初夏とはいえ、林の中にいるせいか、ロッリーアは暑さをそれほど感じられない。林の隙間を抜けて来た風が、やさしく体を撫でていく。
なんか……
ここにおるのは、結構心地ええやろ。
虫がおらんかったら……
ロッリーアがそんなことを考えていたとたんに、山雀の歌声がふっと途切れる。
続いて聞こえてきたのは、甲高い鳴き声と、ばさばさと羽ばたく音だ。
何やろ?
敵?
ほんまなん?
ばれんの、ちょっと早ないんちゃう?
ロッリーアの耳は立ったまま。
遠くない茂みが、ガサガサと揺れている。
あれは決して風の音ではなく、暗殺者のように身を潜め、正体の分からない何か。
追い手?
他のもん?
ロッリーアは身を弓なりに引く。
彼女は目を逸らさぬように見ていて、息までも止まってしまった。
ガサガサの音とともに、何かが茂みからガッサーと飛び出す。
ロッリーアは、あの物の正体を見つける――
猪(イノシシ)。
「……ん?」
ロッリーアは小さく声を漏らし、立ち尽くしたままでいる。
肩がふっと落ちる。
こりゃ……
野猪(イノシシ)?
ほんまや!
新聞にあった写真、ほんま似てるぅー!
初めてやない?
まさかここに、生きて動くもんが見られるんやん。
面白いやん。
けど……
なんで牙あらへんの?
おぉぉ……
雌の方、かな?
ロッリーアは数歩、近づく。
けどさぁ、豚かてな、元は猪を飼いならしたもんやろ?
結局、同じ生き物やんな。
ああ、食べたら、味はどうなんやろな?
野生やけど、特別うまいわけでもないやんな?
けどいかん。
病気になるかも。
猪はロッリーアに気づく。体を向け、低く唸(うな)る。
何をやってる?
おかしい。
ロッリーアは頭を傾けて、そのまま立っている。
猪は前足で地を掻き始める。
何を?
これ。
地ぃ掻くなんて……ペーガソスに似てるやん!
まさか、馬と競走したいんちゃう?
面白いやん。
ロッリーアはそのまま、あちこち見回しているうちに――
猪が、全速力でこちらへ駆け出す。
……えっ?
この子……
戸惑う間もなく、猪は目の前に突っ込んできる。
ぶつかる直前、ロッリーアは本能のまま、咄嗟に横へ身を翻す。
あぶーなぁい!
何をやるの?!
ロッリーアは大きく息を吐いて、走り抜けていく猪を見据える。
空振りに終わったその猪は、ホームから飛び降りた人影に気づいた電車のように、かなりの距離を駆け抜け、ようやく足を止める。
だが、次の瞬間、向きを変え、再びロッリーアへと突っ込んできる。
その猪……
こんなに荒すぎへん?
うち、何もしてへんやろ……
ロッリーアの思考は、ほとんど空白に近かった。
逃げたい……
けどどこ……
反撃にしても、武器あらへん。
――いや、武器どころか、まとも手に入れる木の棒さえあらへん。
刹那。猪は止めようのない勢いのまま意識がわずかに途切れた、その、一直線に突っ込んできる。
ロッリーアは慌てて身をひねって避ける。
だが足元が滑りまま、倒れ込んでしまった。
足首に走った鋭い痛みが、一瞬で彼女の動きを奪う。
次の瞬間、猪はもう目の前にいる。
巨体の黒影が瞳に落ちる。
ロッリーアは咄嗟に目を閉じる。
「はっ!」
誰かの怒号とともに、ある刃で断ち切るような音が耳に届ける。
予想していた、虎戦車に轢(ひ)かれたかのような骨が砕け散る激痛は、とうとう訪れない。
彼女は恐る恐る目を開けると――
さっきまで突進していた猪が地面に倒れている。
首の傷口からどくどくと溢れて真紅の血は、長江(ちょうこう)の流れ。
……えっ?
これ……
もぉ死んだんか?
ロッリーアは頭をふっと振ると、ぼんやりしていた意識が少しずつ戻ってきる。
視線を向けると、ネロが銀色の長剣をしっかり握り、彼女の前に立ちはだかっている。
野猪は……
彼女に?
うち……
救われた?
真っ黒な夜空に、稲妻が走る。
猪がまだ生きているかどうかを確認した後、ネロはようやく身をひねる。
銀色の長剣は地を差していて、まだ血が残ったまま。微かな風は、彼女の短い髪を少し揺らす。
だが、ロッリーアの瞳の奥底に映ったのは、決してこの皇帝の影ではない。
地上(Mundus)に現れたワルキューレ。
この子……
うちのこと、心配するんやん?
ロッリーアの胸が、ふいに誰かにぎゅっと掴まれたように強く跳ねている。
「無事なのか?」
「あぁぁ……はい。大丈夫です……」
声に呼び戻され、ロッリーアはようやく現実に意識を戻す。
ネロは剣を収めると、彼女を立たせようと手を差し伸べる。だが、足首に走る痛みのせいで、ロッリーアは思わず顔をしかめる。
「っ……」
「ソナタは……」
息を呑んだ彼女を見て、ネロはすぐに察したようだ。
「……いえ、平気。地面が少し滑って、転んだときにくじいただけ。少し休めば、多分大丈夫」
そう答えながらも、ロッリーアの表情はあまりうまく取り繕えていない。
それを見たネロは、躊躇(ためら)わず彼女を抱き上げる。
「……えっ、なに?!」
突然体が浮き、ロッリーアは思わず肩を震わせる。彼女は声まで少し裏返ってしまった。
「少し汚れておるね、やっぱり洗ったほうがよかろう?」
「そん、そんな……少し待ってもらってもいいよ……いや、お手を煩わせるほうが……」
「そのようなことはない」ネロは楽しげに笑う。「ロッリーアは背が高いわりに、意外と重くないのだな。小兎を抱いているみたい」
「う、兎って……なんか……」
ロッリーアは顔が熱くなるのを感じ、慌てて視線を逸らす。ふわりと漂う淡い髪の香りが、心地良い風のようにネロの心を優しく揺らす。
ネロは抱きかかえたまま、彼女を水辺の平らな石の上に置く。
あまり大きくはない石だが、平坦で痛みもなさそうだ。
「怪我は?」
ネロが尋ねると、ロッリーアは裾を少し引き上げ、細い足首がひょいと現れる。
そこは元々白く滑らかだったのに、今は大きく腫れて、痛々しいほどだ。
裾を引き上げ続けると、何かに引っかかれてできた膝の傷が現れる。幸い、傷は浅く二本の線がついているだけで、わずかに滲んだ血もすぐに止まった。
転んだ際、本能的に腕で地面を支えたため、肘にも小さな傷ができている。膝と同じくらいの浅さで、ほんの少し血がにじむ程度だ。
ロッリーアは視線を逸らし、肩も少し竦める。
「うん……思ったよりは深いなぁ」
ネロはじっと確かめ、ペーガソスの傍に戻ると、鞍袋からさっきの器を取り出す。
「……ま、まって、何をするつもり?」
ロッリーアは声を上げて彼女を止める。
「何って……傷を洗うんじゃろう?」
ネロは首を傾ける。
「ダメ!」ロッリーアは思わず声を出す。「細菌がいる、感染し……しまう」
「……『サイキン』とは……何だ?」
ネロは、また首を傾ける。
「……」ロッリーアは一瞬、言葉に詰まる。「……簡単に言えば、目には見えない、小さな生き物だ。傷口に入り込んだら、人は病気になって、熱を出して、そして死んでしまう」
「……えっ?目にも見えない生き物?水の中に?」
ネロの視線は器に落ちたまま動かない。その表情が静かに強張っていって、手をそっと下ろす。
「水だけじゃない。土にも空気にもいる」
ロッリーアは眉をひそめ、足首を揉んでいる。
「……」
ネロの顔は、紙のように白くなった。
この子……
なんか、爆弾を抱えているみたいで……
しかも、どう扱えばええのかも分かってへんみたいや。
やっぱり、怯えてるんやん。
爆薬なんて入ってるわけやないのに……
「まぁぁ……心配するな。細菌はどこにでもいるけど、全部が人を病気にするわけじゃないよ」ネロはぎゅっと鼻をひそめ、息を吸い込むのをこらえている。その様子を見たとたん、ロッリーアは笑う。「人間の体には、悪い細菌を防ぐ力があるから、簡単に病気にならないよ」
「……なら、どうすればいいじゃろう。水を使わなければ……」
ネロの強張っていた表情は、少しずつ和らいでいく。この先どうすればいいのか分からないまま、鞍袋の中を確かめてみる。
だが、残っていたのは細かな銀貨がいくつか、それに粗末な服が数着だけ。
「大丈夫よ、傷口を触らなければ、感染しないはずだよ」ロッリーアは軽く手を振る。「この程度、ほっといても治るでしょう。心配しないでね」
「よ……良かろう」
ネロの肩の力は、微かに抜ける。
だが、ロッリーアの視線は突然ネロの顔に落とし、口元をわずかに歪める。
「もし、うちがいなくなったら、あんたはどうするんか?」
彼女は口を開く。
2023.03.30 22:20
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