1-7
名も知らぬ風
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名も知らぬ風
「もし、うちはいなくなったら、あんたはどうするんか?」
「……ん?」
ネロは咄嗟に息を詰める。
彼女は器を持つまま、その手をわずかに止める。やがて、ゆっくりとロッリーアへと視線を向ける。
ロッリーアもまた、何も言わずに彼女の視線を受け止める。
二秒――あるいは、それ以上の空白。
湖の漣(さざなみ)と、鳥の囀(さえず)りと、葉を揺らす風の音が混じり合ったまま。
「……そんなこと、余は考えなかった」
ネロは、ようやく声を出す。
笑わない。
「なんで?」
ロッリーアは眉を微かにひそめる。
「汝(ソナタ)はここにいるから」
話し終わると、ネロはすぐ視線を別のところへ逸らす。
説明もなく、言い添えることもない。
彼女の横顔を見つめながら、ロッリーアは言葉を紡がない。
風が湖の水面を吹き抜け、ネロの髪をそっと撫でる。
この人……
一体何を言うてるの、分かってんやろか?
ロッリーアの視線は彼女の顔から離れ、まだ腫れたまま足首を見つめている。
「まだ痛い?」
「まぁ」
「……ほんとう?」
「……うん」
ネロは、ロッリーアのそばにしゃがみ、腫れたところをじっと見つめる。手は触れず、ただ微かに眉をひそめて凝らしている。
「……そんなに心配しなくてもいいよ、本当に大したことないんだから」
「……分かってる」ネロは顔を上げずに言う。「それでも、心配」
ロッリーアはふたたび、言葉を失ったままだ。
どう返事すればええ?
『心配するな』と?
が、さっきもう言ったんやろ。
『ありがとう』?
理由は分からんけど……どうやっても口に出されへん。
喉に魚の骨がひっかかっているようだ。
ロッリーアは、微かに目を伏せる。
二人の間は、ふたたび空白に包まれている。
ネロは咄嗟に、立ち上がる。
「……どこへ?」
ロッリーアは、思わず彼女の後ろ姿を目で追う。
「ちょっと待っててね」
ネロは説明もせず、さっき野いちごを探していた方へ歩いていく。しばらく近くの茂みを探り、やがて戻ってきる。
だが、その手にあったのは、広い葉が数枚だけ。
「これは……?」
「車前草(オオバコ)」ネロはロッリーアの足元再び身をかがめる。「その前、余が怪我をしていたとき、リタはこれを使ってくれた」
その車前草を見ると、ロッリーアは何も口に出せない。
ネロは葉を揉み潰し、ゆっくりと、そっと、少しずつロッリーアの足首に乗せている。
湿った感触はひんやりとし、ロッリーアの肌にじんわりと染み込んでいる。
どういうわけか、彼女の肩の力が、わずかに抜ける。
「役に立つかな、これ」
「分からないけど」ネロは顔を上がって、ロッリーアの目を受け止める。「せめて、何もせずより良いじゃろう」
足首に乗せていた葉を見るまま、ロッリーアは少しぼんやりに込む。
『分からないけど、せめて何もせずより良いじゃろう』
――なぜか、その言葉を思い浮かべたとたん、ロッリーアはなんだか思わず可笑しくなってしまった――
皮肉っぽい可笑しさではなく、もっと軽やかな、ほんの少しのもの。
こらえようとしたが、やはりこらえきれず、口元をそっと上げる。
「……何、笑ってるの?」
「別に」
「……笑っているのに」
「うん……何とか……」ロッリーアは少し視線を逸らす。「随分変な人」
「どこ?」
「分からないけど」
ロッリーアは、ネロの答えをそのまま返す。
ネロは一秒ほど呆けた後、同じように口元を少し上げる。
皇帝のようではなく、彼女自身がもともと持つはずの――普通の若い女の子。
涼しい風の中で、木の影は少しずつ長くなっている。
多分、一時間ぐらい……やなぁ……
ロッリーアは思わず手を翳(かざ)し、陽射しを遮う。
ネロは、その細い白い腕を見つめている。
「行くつもり?」
ネロは彼女より先に声をかける。
「うん、ここにいる時間も結構長いし。それに、足首はあまり……」
視線が足に落ちたとたん、ロッリーアの言葉は不意に消えてしまった。
足首には、いつの間にか毛虫が、のろのろと這(は)っている。
気づいたときには、それはすでに蠢(うごめ)いている。
「……っ、woccao!!!」
静かに座っている人は、時間を飛び越えるかのように、石から飛び上がってしまった。
聞いたことのない、鋭く荒い叫びが一息に弾ける。
ネロは思わず耳を塞ぐ。
分からない言葉だったが、とても穏やかなものには聞こえない。
「余の耳!ロッリーア、うるさい!」
しかし、ネロの抗議は届いていないようだ。
ロッリーアは足を激しく揺らす。
……が、無駄だ。
そいつは相変わらず、じわじわとこちらへ迫っている。
「っ……」
ロッリーアはもう考える余裕がない。
息を吸い込むと、彼女は片手を大きく振り上げ、毛虫を叩き飛ばす。
その毛虫にとって、こんな荒っぽい扱いを受けるのは、多分生まれて初めてのこと。
それはくるくると回転しながら、二メートル先の草むらへと舞い上がり、空中に見事な弧を描く。
しかしロッリーアは、どうしてもじっとしていられない。
足首はまだ少し痛むにもかかわらず、なんとか地面に力を込め、立ち上がったのだ。
ネロは、全てのことを目にする。
ロッリーアの目は、探照灯になるようで、自分の体に何回も見回す。
「……ロッリーアは、虫のこと、怖い?」
ロッリーアはただ『うん』と返事しかなかった。
自分は、どこにも微かにむずむずしてチクチクしていたと。
「こちもいる」
「どこ?!」
ネロの話を聞くと、ロッリーアは身を回る。
「背中よ、まだ数匹が」
「――いっやっ!」
ロッリーアは激しく震えていた。彼女は目的もなく手を後ろに振り回し、何度も跳ね上がる。
「アハハハハ……」
ネロは荒々しく笑いながら、しゃがみ込む。
ネロの様子を見ると、ロッリーアはようやくどこかおかしいことに気づき、動作を止める。「……ウソ?嘘ついたの!?」
「ハハハハ……ロ……ロリアは……面白すぎー……ッハハハ……」
「……わ……笑わないで!」
ネロの笑い声の中に、ロッリーアの顔は、少しずつトマトになっていく。
そう言われても、ネロは笑うことが全く止まらない。彼女は笑いすぎてお腹を抱え、腰も伸ばせない。
目の隅で、涙さえ流れる。
「くっ……笑うな!」
ロッリーアは恥ずかしさと怒りで、顔を真っ赤にしながらも、歯を食いしばり、足を踏み鳴らすことしかできない。
「ご……ごめん……」ネロはようやく口を開いたが、眉間の笑みはまったく消えず、震える声で言う。「余……余はただ……ロッリーアって……普段は冷静で落ち着いているから、虫を怖がるなんて、信じられなくて……」
ロッリーアの頭からは湯気が立ち上るように熱がこもり、もはや優雅さも分別も保てない。
「……くっ……!いい加減にしてぇよ!」
ネロの眉間には、まだ笑みが残っている。
だが、体は自然に反応し、突進してくるロッリーアをかわす。
ロッリーアはあきらめず、さらにネロに向かって拳を振り上げる。
「えっ、怒らないでよ。余が悪かった、ねぇ?」
ネロは苦笑しながらも、決して本気で応戦しない。ただ軽く身をかわすだけで、子供と遊んでいるかのようだ。
二人はそのまま、ほぼ二、三分間も続ける。
結局、力を使い果たしたのはロッリーアの方で、先に動きが止まった。
彼女は大きく息を弾ませ、胸が上下に激しく動く。汗は髪の毛を伝って顔や首、額に滴り落ち、さながらマラソンを走り終えたかのようだ。
自分を追ってこないのを見つめたネロは、ロッリーアの前に歩み寄って言う。「……ふう、思ったよりも……勢いがあるな、汝(ソナタ)は」
ロッリーアは一瞬ネロを睨みつけ、拳を小さく握り上げる。
だが、今回はその拳を振り出すことはない。
「けどなぁ、こういうロッリーアは」ネロは下がらない。「やっぱり、ちゃんと生きている人間らしいよね」
ロッリーアの息が止まる。ようやく引きかけていた頬の赤みが、またじわりと戻っていく。
「……って、この前のうち、人間らしくない、と言いたいやろう」
「そういう意味じゃないよ。ただ……さっきまでのロッリーアは、なんというか……ちょっと手の届かないところにいるようでね」
「……じゃ今は?」
ロッリーアは食い下がる。
「もちろん、可愛い女の子なんじゃろう」
「……きみ!……ふっ、嘘つき」
ロッリーアは一瞬、動きを止める。
そして、ぷいと顔を背ける。
ネロはためらいながら、手を伸ばす。風に乱れたロッリーアの長い髪をそっと撫でる。
「なんで汝に嘘を?」
ロッリーアは答えない。
ただ、顔をさらに背け、視線をサバティヌス湖へと落とす。
風にかき乱された漣が光を砕き、湖面には自分の姿さえ映らなくなっている。
「……どうせ、さっきのは嘘だったんでしょ」
しばらくしてから、ロッリーアが小さく呟く。
ネロはくすりと笑う。
「それとは違うよ」
「どこが?」
「あれは冗談。でも、これは違う」
ロッリーアは黙り込む。
そして、頬がまた熱を帯びる。
彼女は俯いたまま、足元の草を軽く蹴り、ネロの手をそっと払いのける。
「……触らないで」
「なんで?」
「なんでじゃない、とにかくダメ」
「だが、さっきは余を打ったではないか」
ネロは小さく首を傾げる。
「それは、あんたが悪いだけでしょ。……ふん」
ロッリーアは頬をふくらませる。
「じゃあ今は?」
ロッリーアは答えられない。
そっけなくネロを無視し、しゃがみ込む。
先ほど落とした器を拾い上げ、付いた土を軽く払う。
「……行こう」
そう言い残すと、そのままペーガソスの方へと歩き出す。
その背影を見つめながら、ネロはゆっくりと口元に笑みを浮かべる。
「うん」
二人は距離を置いたまま、それぞれ歩き出す。
風は相変わらず、湖面を渡っている。
けれどロッリーアは、誰もいない心の野原に、名も知らぬ風がひとすじ、吹き込んでくるのを感じた。
2026.06.13 14:07
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