サバティヌス湖に離れてから、どれほどの時間が過ぎただろう。
その問いはロッリーアまでも、はっきりとは分からない。
日はゆっくりと傾く。もとは緑だった視野に、淡い黄金な光を薄く重ねていく。
ペーガソスの蹄は、相変わらず規則正しく地面を叩いている。速くもなく、遅くもなく。
規則正しい蹄の音に合わせるようにして、馬上の二人が小さく揺れている。
前にいるのはネロ、後ろにいるのはロッリーア。
来た時と、何一つ変わっていない。
「……ロッリーア」
「なんでしょう」
「足、まだ痛い?」
「全然」
「……本当?」
「本当」
「なら良かった……」銀浅金の短髪が、その黒い瞳の奥に映り込み、夕日に染まり、やがて金色へと変わっていった。「また痛むようなら、絶対言うのじゃぞ」
「……うん」
ぼんやりとネロの背中を見つめていて、ロッリーアはそのような簡単的に返事を出すだけで、まだ無言に戻る。
この子にもう少し……言葉をかけたほうがええんやろか。
けど、何を話せばええんか、まったく分からへん。
ロッリーアは、足首をじっと見つめる。
赤みはとうにほとんど引いていて、目で見てももう違いは分からない。
彼女は視線を引き戻し、静かに目を閉じる。
あの、わずかに冷たさを帯びた湿った感触……
本来なら、避けるべきやったのに。
けど……
あのとき、なんでうちは避けへんかったんやろう。
抵抗さえへんかったどころか……
ほんの少しだけ、終わってほしないと思てしもた。
ロッリーアはわずかに眉をひそめる。
……え?
一体、どうしてしもたんやろう。
おかしい。
こんなん、うちらしないわ。
……まぁええわ。
それ以上は。
「ロッリーア!」ネロの声が急に高まる。「あそこに、小屋があるぞ!」
「……ん?」
ロッリーアは目を開け、そちらへと視線を向ける。
斜め前方には、木陰に遮られていない、わずかな空の切れ間がある。
その緑の裂け目の下に、ひっそりと一軒の木の建物が佇んでいる。
無理に言えば、確かにそれは辛うじて「小屋」と呼べなくもないが。
扉はとうに失われ、ぽっかりと黒い口を開けるばかり。屋根は半分近く崩れ落ち、獲物が罠にかかるのを待ち構えているかのようだ。
より正しく言うなら――「廃屋」と呼んだほうが、相応しいのかもしれない。
「……もう遅いから、今日はここに泊まってはどう?」ネロはそっと頭を巡らせ、視線だけでロッリーアをうかがう。「日が落ちたら、他の場所を探すのも難しいじゃろうし」
ロッリーアはすぐには答えない。わずかに間を置いてから、微かに頷いた。
「……ええ」
ペーガソスは木の小屋の前で止まる。
ロッリーアとネロは馬から降りる。痺れて重くなった手足と腰を軽くほぐし、それから手綱を戸口脇の枝にかけ、ようやく中の様子をうかがう。
朽ちかけた梁の下では、苔が壁際から静かに広がっている。埃と蜘蛛の巣が、すべてを過去の中に閉じ込めていた。
先に踏み入るのはネロ。
戸口の外で二秒ほど躊躇った後、ロッリーアはわずかに頭を下げるようにして、ネロについて中に入る。
三秒も経たないうちに、顔色がさっと白くなる。
それ以上は踏み込めず、逆に外へと後ずさる。
「どうかしたの?」
ネロは首をかしげる。
「……く……蜘蛛が、虫も……」ロッリーアの顔まで崩れる。外へ逃れるように身を引きながら、声を押し殺すように言う。「……か……かわってもあかんか?」
「けど……こんな場所、見つけにくいでしょう」ロッリーアに向けるネロは、声が優しい。「夜になったら、狼が出るかもよ?」
「……おおかみ?」
ロッリーアの声は震えてはいない。
ただ、唇だけが、わずかに震えていた。
「そうよ」ネロは首を振る。「この辺りは人間が少ないから、狼とか熊とかよく出るぞ」
空白。
けど、遠くから山雀のさえずりが聞こえる。
ロッリーアは近づくことも、後ずさることもない。釘づけにされたように、じっと立ち尽くしていた。
ネロはそれ以上、何も言わず。
彼女はさっと腰をかがめ、地面に落ちていた枝を一本拾い上げると、隅々をこつこつと叩いていく。
全てを叩き終えて、ようやく枝をぽいと放り出す。
ロッリーアには、ネロが何をしているのか分からない。
何度か外と中を行き来しながら、ネロは部屋の中のがらくたを一つずつ運び出していく。
蜘蛛の巣はぱさりと払い落とされ、埃はふわりと舞い上がっては、やがて静かに落ちていった。
室内には、ようやく足を下ろせるだけのわずかな空間ができる。
「入ってもいいよ」ネロは中から声をかける。
ロッリーアはじーっと視線をつける。
だが最後、彼女は入っていった。
あっちこっちを見回すが、怖いものは何も見つからない。
……多分。
裂け目から見上げると、ロッリーアは流れる雲を見つめる。
そうか、中庭か……
ロッリーアは何も言わずに視線を戻した。
「そうだ」
ネロは手や服についた埃をぱっぱっとはたき落とす。
それから顎を上げ、胸を張る。
「……なんだこれ。アンタ、子供か」
ロッリーアはくすりと小さく笑っただけで、それ以上は何も言わない。
ネロもまた、ただ笑みを返すだけ。
「……では、泊まろうか」
「ええ」
外では、赤い夕陽が遠くの緑を抱いている。
地平線の彼方では、最後の海老色の光が消え去ろうとしていた。空はゆっくりと、闇へと沈みつつある。
ロッリーアとネロは焚き火のそばに座っている。
焚き火はあまり大きくない。薪は湿ったせいか、煙が少し目に沁(し)みる。だがこの二人は何も言わず、それぞれの食べ物を口に運んでいる。
もう硬くなった半切れの蜂蜜パン。細い木串に刺された猪肉。森で摘んだ野いちご、木いちご、そして野桜桃。
――それが、今夜のすべてだった。
その薪はときおりぱちりと音を立て、小さな火の粉がぱっと跳ねる。
火の上には、水を満たした銀の器が置かれ、栓はされていない。うっすらと、立ちのぼる湯気が揺れていた。
ロッリーアはパンを噛みながら、心の中で秒を数えていた。
硬い……
甘すぎて……喉までやられそう……
この子、一体どれだけ蜂蜜が好きなんや。
金宮のパン職人、まさか蜂蜜を酵母みたいに扱ったか?
心で180まで数えたころ、ロッリーアは火の上の器を取り、そばの地面に置いたままにする。
「……飲めるの?」
口の中の猪肉を飲み込み、ネロは我慢できず声を出す。
「……沸かしたばかり」
ロッリーアは眉をわずかにひそめる。
「違う。聞きたいのは……その『細菌』というものがいる……んじゃないか」
「沸かしたら、全部死んでる」
「そうなの」
ネロは自分に言い聞かせるように呟く。
ロッリーアは彼女をじっと見て、もう一本の猪肉を取り、噛んだ。
苦い。
けれど、少しだけ。
苦みがわずかに混じる中に、その草と木の匂い。焦げた柴火の煙の匂いと、濃い獣の匂い。その三つが混ざり合い、舌の上に残っていた。
そう言えば……
焼かれた骨付き羊肉のようだ。
けれど、味はあれより濃く、ざらつくようだった。
味はロッリーアの口の中に、じわりと広がる。
「どう?」
ネロは視線を落とした。
「うん……思ったより、しっかりした歯ごたえがある」ロッリーアは肉を飲み込んでから、のんびりと言う。「これまでも食べられるのが、想像もしていなかった。さすがだね」
「セレス人は、イノシシの肉を食べない?」
ロッリーアは顔を上げる。
だが、ネロは、答えを待っているだけのようだった。
ロッリーアは視線を落とし直す。
「そんなこと、聞いたことがない」
「そう……なの……」
ネロはうつむく。
そして、もう一口の肉を噛む。
焚き火の中で、柴はまだぱちりと音を立てている。
「……なら、普段は何の肉を食べる?」
その静けさは、長く続くことはなかった。
「うん……豚、牛、羊、鶏、鴨や魚の肉……かなぁ」
「それは、ローマとほとんど同じだろう」
ロッリーアは「うん」とだけ答え、野桜桃を一粒手に取る。
理由は分からない。だが、午後のことがふと心に浮かんでいた。
あの時、ロッリーアは藪の前に足が止まった。
丸くて黒い液果は、つやつやしていた。野桜桃や野生のブルーベリーにも似たそれは、枝にぶら下がっていた。
……熟れたんやなぁ。
食べられるんやろう、多分。
彼女は一粒を手に取って、目の前でじっと見つめた。
「何をする?!」
不意に、背後から鋭い声が弾けるように飛んだ。
ロッリーアは体がびくりと震えてしまった。
次の瞬間、ネロはすでにロッリーアの前へ飛び出していた。手首を掴み、その果実を叩き落とした。
「これは、ベラドンナじゃ!」
「……べら……べら何や?」
「ベラドンナ!」ネロの声はわずかに震えていた。彼女はロッリーアの手首を放し、落ちた果実を踏み潰した。「もう食べちゃったのか?!」
「ううん」
「まことか?」
「……ほんま」
ロッリーアを見つめ、ネロは息を吐いた。「……良かろう」
ネロに掴まれたままの手首を見下ろし、ロッリーアは藪に残った黒い実へ目を向けた。「……毒なん?」
「当たり前だろう、数粒でも死ぬ」
ロッリーアの目が細くなった。
「本当に食べてなかった?」
「食べてへん」
「けど、さっき摘んでいただろう」
「摘んだだけや」
「でも――」
「食べてへんって言ったやろ」ロッリーアは、ネロの手を振りほどいた。「こんなことで、嘘つくわけないやろ」
ネロは、空いたままの自分の手を見ている。
「……分かった……とにかく、知らぬ実には触らないでくれ」
「……うん」
意識は戻ってきた。
ロッリーアは手の中の野桜桃を口へ運ぶ。
ちぃと酸っぱいけど……
食べられる。
ロッリーアは焚き火の向こう側にいるネロをちらりと見る。
ネロは野いちごをひと掴みすると、そのまま一気に口へ放り込む。
頬が膨らんだ。
リスみたいや。
……そう言えば、雀はリスを喰うんの?
喰わへんと思うわ。
そう思いながら、ロッリーアの中で、二人のネロの姿が重なっていく。
ロッリーアは手元の野桜桃の種を、何気なく横へ吐き出した。
そして、また一粒を取る。
最後の薪が崩れ落ちるまで、焚き火はそのまま燃えていた。
「寝ようか」
ロッリーアは首を振る。
二人はそれぞれ古い服を床に広げる。
最初に横になるネロは、ロッリーアに背を向ける。
ロッリーアは顔を上げ、裂け目から夜空を静かに見詰める。
星の群れが、海中の島々のように広がっていた。
銀砂(いんしゃ)――
ほんまに、素晴らしい描写やなぁ……
誰の言葉やったの……
ロッリーアは目を開けたまま、いつの間にか口が開いていた。
彼女はしばらく星空を見上げてから、ネロに背を向けて横になる。
……足は重く、腰もひどくこわばっとる。
こんなにつらいことは、今まであんまりなかったはずや。
朝まで、どうなるんやろう……
まぁ、きっとすぐに寝付けるはずや。
明日はどこまで行けるんやろ。
反乱軍に遭うんやろか。
リタは今、どこにおる?
無事なんやろ。
捕まってへんやろうか。
――あの、少し冷たく湿った感触。
いや。
考えたらあかん。
闇の中で、ロッリーアは黙ったまま、眉をひそめた。
他のことを考えな……
この屋根、雨降ったらどないするんや。
けど空見る限り、雨は降りそうにないわ。
……
……
ロッリーアの意識は、ゆっくりと闇へ沈んでいった。
消えかけた焚き火の残り火だけが、わずかな温もりを残している。
虫の声が、さらに大きくなる感じみたい。
遠くのもの、近くのもの、高いもの、低いもの、太いもの、細いものが重なり合い、境界のない網を織り上げていく。
さながら、優雅な交響曲のようだ。
ネロは寝つけていない。
理由なんて、自分でも分からない。
ひどく疲れているのに、目を閉じても意識はどうしても沈んでいかない。
どれくらい経ったのかも分からないまま。
隣から、ふいに音がした。
寝返りの音でも、息が重くなる音でもない。
人の声。
ネロの目が開いた。
あれは泣き声ではない。
うめき声ではない。
ため息でもない。
言葉だ。
抑揚(よくよう)があり、感情があり、流れがある。
断片的に途切れながら、何かを語っているようだ。
だが、ラテン語ではない。
ギリシア語でもない。
ケルト語でも、ゲルマン語でもない。
アラム語でも、マケドニア語でもない。
ネロが聞いたことのある、どの言語でもない。
彼女は身を寄せ、ロッリーアの方へ目を向ける。
破れた屋根の裂け目から、明るい月の姿が見える。斜めに差し込む光が、床に細い帯を落としていた。
ロッリーアは、その光の中に横たわり、深く眠っている。
しかしその寝顔の上に、細く、光を帯びた銀の線が浮かんだ。
ネロは、その横顔から目を離さない。
声はまだ続いている。
低く、柔らかい。
世界の果てから、風に乗って届くかのように。
ネロの手がそっと伸びる。
だが、宙で止まる。
一秒、二秒、三秒……
ロッリーアの声がふと、わずかに浮き上がる。
そしてまた、静かに沈んでいく。
ネロはそっと手を引いた。
ネロは首を振り、音もなく息を吐く。
それから、しばらくロッリーアのことを見つめたあと、ゆっくりと背を向ける。
ロッリーアの寝言は、次第に小さくなっていく。
少しずつ、少しずつ。
やがて、闇の中へ溶けてゆく。
あとは、穏やかな寝息だけが残っている。
規則正しく、静かな呼吸。
ネロは目を閉じない。
虫の声は、まだ続いている。
夜明けはまだ遠い。
2026.06.13 15:05
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