「『ロッリーア(Lollia)』か、可愛い呼び名だね~」
ネロの口調は軽やかになった。
いや、それは実際にさっき思いついたばかりの名前だった。
少女は心の中では話すつもりはなかった。
「ロッリーアはどこの出身?」
ネロは何事もなかったかのように、少女に話し続けた。
「うーん……」
ロッリーアが答えを迷っている間に、ネロは勘違いしたようだった。「……すまん、余は調子に乗りすぎたな。嫌なら答えなくてもいい」
「あぁ、違います。そういう意味じゃないんです」ロッリーアは慌てて否定した。「ただ、別のことを考えていただけです……」
「余に対しては、敬語を使わなくても良い」ネロはロッリーアと親密になりたいと思うようだった。「旅はまだ長いでしょう」
「そう言われても……ネロ様(Dominus Nero)は天子なんでしょう。普通に話すなんて……」
「いいじゃないか。ロッリーアは特別だから、汝(ソナタ)だけは許す」
「……わかりまし……わかった」ロッリーアは言う通りにするしかなかった。「じゃあ、無礼を許してね」
「構わないよ、ロッリーアなら」ネロは胸を躍らせていた。「でも、『ネロ様(Dominus Nero)』が好きだから、そのまま余に呼んで。うん」
「あぁ……はい」
「で、さっき考えたのは、何のこと?」
「秘密よ」
「何よ、ロッリーアたら。もう~っ、そう言うと余はもっと知りたくなっちゃうじゃないか」
「そう言われても、アタシにも教えられないよ」ロッリーアはそう言いながら、口元をほころばせた。「秘密というのは、女性に魅力を失わせないためのものだ」
「じゃ、余が第一市民(プリンケプス)の名で命じたら、汝(ソナタ)はどうする?」
ネロにも冗談の余裕があった。
「たとえ天子であっても、そんなひどいことを他人に無理やりさせてはいけないよ」
「さぁ、どうだろう~」
二人は小さく笑い合った。まだ逃亡の道中だったが、そのことをしばし忘れてしまったようだった。
「……そう言えば、さっきの聞きたかったことを、ロッリーアはまだ話していないよね」
ネロは結構ロッリーアのことに興味があるようだった。もし相手がローマと敵対する国の人間なら、自分はどうすればいいのか――そんなことは、彼女は考えもしなかったのかもしれない。
「うーん……結構遠い所からね……」ロッリーアは注意深く言葉を選んだ。「貴女はセリカのこと、ご存知ですか」
『セリカ(Serica)』という単語を聞いたネロは先に迷ったが、二秒ほどして頭の中は真っ白になった。それは、街中で本物の戦車を目にした市民たちぐらいの精神的衝撃だった。
「……えっ、えっ?!」
ネロは目を丸くし、思わず身をよじって、危うく馬の背から落ちそうになった。
「危ない!」
ロッリーアは急に声を上げた。
ネロも慌てて馬を止め、身を落ち着かせて少女に目を向けた。「……まさか、ロッリーアは?」
「うん、ワタシがセレス(Seres)人」
「本当?!」
ネロの目はさっきよりさらに大きくなった。
「うん、本当よ」
「セレス人、だよね?」
ネロはもう一度確認した。
「うん、セレス人だよ」
ロッリーアももう一度、ネロの確認に肯定の返事をした。
「そうか、そうだったのか。いいなぁ……」ネロは突然にすっごく嬉しく、そして羨ましく思った。「まさか初めて出逢うセレス人――あの裕福な東の大国の人間が、アポローン(太陽神)様の使いだなんて」
「あぁ……そう……」
まだ神託のことを聞いたばかりで、ロッリーアは話をどう続けたらいいのか、全く分からなかった。
でもそう言えば、さっきは「月の女神の使い」と言われたなぁ。今度が「太陽神」なんて……
ロッリーアは彼女に翻弄されて、頭もクラクラした。
「そうよ」ネロは思わず頷いた。「昔の航海家オネシクリトス(Onesicritus)は『セリカは自然に恵まれ、おとなしい性格の人々が住んでいる国なんだ』と褒めたそうだよ」
「う……それはどうも……」
ロッリーアは多分褒められることにまだ慣れていなかったので、顔は微かに赤くなった。
クソッ、彼女、照れた様子がめっちゃ可愛い。
抱きしめたい!
ネロはそう思った。
「ところで、セリカの広さは一体どのくらい?」ネロは新しい質問をした。「ローマと比べると?」
「うん……今なら多分200万以上サルツス(saltus)(※)ぐらいかな」
その数字を聞いたネロは「おぉ」と小さく驚いた。「それなら、まるでローマくらいの広さではないか」
「はい、我が国は広い大国」ロッリーアは声まで思わず誇らしげになった。「あそこの人々は勤勉で素朴で、穏やかで親切な性格を持ち、輝かしく眩しい文明を築いた」
「一度だけでもいい、余も東の国へ行ってみたい……」ネロはすごく羨ましそうに見えた。「あのクソったれなパルティアの奴ら、いつも道をふさぐのか、セレス鋼で余を脅すのか」
不満をこぼす皇帝の背中を見ながら、ロッリーアはただ微かに笑った。その目の中に深い意味を隠されているようだった。
「セレス人の鋼は征服と侵奪の工具ではなく、むしろ耕作や自分を護るためということだから」彼女は淡々と穏やかに話した。「鋼製の兵器はセリカの長い歴史の中では、ただ隅にあって小さな塵のような存在にすぎない。心からの自信と余裕が、我が民族の真の宝なのだよ」
「『本物のチカラは誰にも見られたものではなく、あの実力をどう生かすかの知恵の中に隠れている』ということでしょう?」ネロは微かに横目で見た。「こりゃー、ずいぶん哲学的な言葉だよね」
ロッリーアはただ微笑むだけで、話し続けようとはしなかった。
だが、ネロは新しい質問を投げかけた。
「……どころで、セレス人は本当に130歳まで生きられるの?」
「130歳って……」ロッリーアは唇までピクピクした。「私たち、何だと思って扱ってるの?カメか」
「あれー、そうじゃないの」ネロは首をかしげた。「じゃー、絹は汝の国(セリカ)のものでしょう」
「うん」
相手は見えなくても、ロッリーアが首を振った。
「いいなぁ……絹って、高価なだけじゃなく、すぐに売り切れちゃうんだね」なんか、ネロの話には羨ましさが混じっていた。「一リプラ(libra)の絹製品の値段は、同じ重さの金よりも高いんだ」
「えっ!?本当?」
ロッリーアは全然信じられなかった。彼女は耳が思わずサボったかと思ったほどだった。
「本当だよ」
でもネロの頷きは、耳に入った言葉が間違いではないと証明しようとしていた。
「信じられない……同じ重さの金より高いなんて、私が最後に聞いたのはB-2爆撃機だったのね」
ロッリーアはひたいに手をかけた。
「……『バクゲキキ』とは、なんじゃろう?」
今日のネロは、いつも新しい言葉に触れていた。
「あぁ……お忘れください」
自分は無心に余計な言葉を話したと気付いたが、ネロの好奇心はもうくすぐられていた。「ねぇ……あの『B-2』と言われたものって、ひょっとするとセレス人に作られた、まだ知られていない商売品なの?」
「……」
ネロの度重なる問いに、どう答えたらいいかしら?
その一瞬で、ロッリーアは全く迷ってしまった。
でも、ネロはこんな簡単に諦める人間ではなかった。「ロッリーアたら、もう~っ、言え~」
結局、ロッリーアは彼女の諦めない心に負けるしかなかった。「……『B-2』とは我が民族の商売品ではなく、他国で作られた兵器だった」
「そう……か、兵器……だよね……」
ネロの瞳の奥にインウツは見えないけれど、ロッリーアは口調から彼女の考えを想像できた。
この子(ネロ)、多分戦争のことがあまり好きじゃないだろうなぁ……
周辺には馬の蹄が地面を踏む音と、朝風が枝や葉を撫でる音以外、何もなかった。
「もし戦争というものが消えてしまったら、どんなに素敵なんでしょう……」
ネロは微かに息を吐いた。
「でもセリカなら、きっと戦争はないはずだよね?」
今回はロッリーアが息を吐く番だ。
「えっ?例えセリカでも戦争があるの?」
ネロはすっごく不思議だった。
「あのなぁー、よく知らんけど、私たちのことについて色々変なウワサ、君たち(ローマ人)は一体どれだけ作ったの?」ロッリーアはツッコミどころがどこにあるのか知らなかった。「私たちセレス人は衆神の国に住んでるわけじゃないんだから、戦争がないなんて、ありえないだろう?」
「そっ、そうか……悪い」
「謝らなくても構わないよ、アナタが我らのことを知らなかったよね?」
ロッリーアはネロをしっかりさせる方法を知らないので、ただ彼女に気にしないでいてもらうしかなかった。
しかし、ネロはセリカについてのイメージや知識がほぼ正しくないと分かった以上、気にしないようにするのは全然不可能だった。例えロッリーアに答えにくいことがあっても、ネロはやめることなく彼女に質問を続けた。
セリカとローマの距離?首都はどこ?隣の国たちはどこにある?
政治制度は?君主は?男性か女性か?
絹の材料は木の葉なの?
セレス人は異民族と売買することが好き?
もしそうなら、彼らはどうして一回でもローマに来なかった?
そんな色々おかしい問題が雹のように、一気にロッリーアを押し寄せ、全く歯が立たなかった。自分が心から学ばなかったことを後悔するのは初めてで、その理由がまさか美少女の質問に答えられないことだとは、ロッリーアは全然気づかなかった。
もし他の人だったら、きっと全身全霊で何百年かけて神々に祈っても得られないようなチャンスなのに、自分はそれに値する能力さえ持っていなかった。
天は、本当に黒いユーモアが好きなんだなぁ。
そこまで思うと、ロッリーアは思わず微かに息を吐くしかなかった。
どれくらいの時が流れたのか分からないけれど、森の木はさっきのように茂ってはいなかった。緑はまだ多いものの、周りの視界もどんどん広がっていった。
ロッリーアは東へ眼差しを向けると、鏡のようにキラキラ光る水面が目に入った。続けて西の方を見ると、さらに広大な湖面が広がっていた。
「えっ?湖が二つもあるの?」
例えロッリーアは声に出さなくても、ネロはすぐ気付いた。
「うー……そう言えば、今はアルシエティヌス湖(Lacus Alsietinus)とサバティヌス湖(Lacus Sabatinus)の間なんじゃろう……」
ネロは左右に見ながら、ペーガソスを西へ歩かせた。
「アルシエティヌス湖(Lacus Alsietinus)と……サバティヌス湖(Lacus Sabatinus)って……長っ!しかも、男性形を使うのはどうして?」
「男性形って……そう問われても、余は答えられないなぁ」ネロはその変な質問に面食らった。「lacusは男性形だから、後に続く単語も男性形にしなければならない。余はそれしか答えられない」
「……でも、変だと思わないの?aqua(水)は正しくは女性形なのに、湖(lacus)が男性形に変わるなんて」
ネロはかなり説明したけれど、ロッリーアを納得させられなかった。
「……そう言えば確かに、そんなことは余も考えなかったね」ネロは文法の枠を越えて考えてみた。「無理に説明したら、多分全ての語彙には生まれながらの『天性』があって、理性や論理で作られることではない、と感じるかもしれないね」
「で、先祖たちは使うときに何も考えない、というわけでしょう?」
「そうだったかもね?」
ラテン語を作った人々はどう思ったのか、ネロには知らなかった。
しかし、もしタイムマシン(時間飛行機)があって、二千年前に彼女を送れば、それは別のことかもしれない。
「この言い訳、なんか……結構テキトーそうだなぁ」ロッリーアはその理由をしかたなく受け入れた。「でもまぁ、現実は時々文学作品さえ常識を超えることがあるから、絶対にないこともないけど……」
「アハハ……言葉というものは、感情を表すための道具だけなんじゃろう」
ネロも苦笑いするだけだった。
「そうよね……」
ロッリーアが何かを考えている間に、ペーガソスはゆっくり最後の小さな坂を登りきっていた。
広大なサバティヌス湖はこの二人の目の前に、まさに大自然に磨かれた清らかな宝石のように、蒼く波のような美しい丘の連なりの間に静かに横たわっていた。正午の日差しと心地よい湖風の中、その透き通るような浅海の青い水は、銀のように光を波打っていた。
ここは、どれほどキレイな風景なんだろう。
ロッリーアまでその中に酔いしれた。
「一応、休憩ってどう?」
ネロは水辺の野原にペーガソスを止め、ロッリーアはギリギリで馬から飛び下りた。
「……わたしの心から言えば、今危険が抜けたと思うのは早い。やっぱり出来る限りローマ(帝都)を遠く離れてほしい」
ロッリーアは目を上げたり、太陽の位置を確認したり、独り言を言ったりしたが、ネロにアドバイスをすることにした。
「そうだけど、ペーガソスもよく歩いたでしょう?この子の現況も考えなきゃ無理じゃろう」
ネロはペーガソスを優しく撫でて、馬上から下りた。今の彼女たちにとって、それは唯一の逃亡の希望だったのだ。大事にしなければいけないだろう。
「……良かろう」
ロッリーアは目をじっと周りに向けて、異常な状況には何も気づかなかった。聞こえるのが、耳に心地よく響く山雀たちの歌声だけだったのだ。
もし誰かがそこに来たら、その可愛い精霊たちはきっと相手よりいち早く警報を発したに違いない。
ネロはペーガソスに自由に草を食べさせて休憩させてやりしながら、鞍掛け袋から金属でできたような缶を取り出し、湖辺で水を汲んだ。
「……一応キレイだけど、やっぱり直接生水を飲まないほうがいいと思う」
ロッリーアはネロが生水を飲もうとしているのを見て、我慢できずに声をかけた。
「そんなつもりはないよ」ネロは迷わず動作を続けていた。「余は火打ち石を持っているよ。火ぐらい付けられるぞ」
「アンタ本気?今の状況で、火なんて付けられるの?」
「じゃあどうしよう。目の前に水があるのに、死ぬまで渇いたままなの?冗談じゃないよ」
ネロは不満そうにぷいっとした。
「……とにかく今はダメ!これ、没収!」
ロッリーアはそれを直接取り上げた。ネロは相手よりやや頭ひとつ分低く、たとえ跳び上がっても、ロッリーアの頭より高く掲げた缶には手が届かなかった。
「喉渇いたぁー!飲みたいぃー!」
「ダーメ!」ネロがどんなに拗ねても、ロッリーアは折れなかった。「渇いたら、苺を取って食べればいい」
ロッリーアの視線を追ったネロは、隣の木の根元に野苺を見つけた。
「ムゥ……ひっどぉーい。ロッリーアの言う通りにしたら、たとえ天地が果てしなく続いても、渇きは解消できないのよ」
文句があるけれど、ネロは素直に地面にかがんだ。
彼女の様子を見たロッリーアは、仕方なく小さく息を吐いた。
※、サルツス(saltus)――ローマ時代最大級の面積単位。
1 saltus(サルツス) = 800 iugera(ユゲラ) ≈ 2.016 km²
2023.02.18/20:08
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